『火の鳥 復活編』を見て気づいたこと
最近、『火の鳥』の復活編を見た。 観終わった直後、なんとなく心に残る違和感があった。
特に気になったのはロボットのチヒロというキャラクターの姿だ。人間に近い姿なのに、頭に触覚のようなアンテナがついている。それが僕には少し不快で、まるでバッタの顔を近くで見た時のような拒絶感を覚えた。こういう感情を持つ自分にも違和感があった。
普段から「外見で人を判断したくない」と思っているのに、なぜこんなにもあっさり拒絶感を感じたのだろう。
物語の中で、主人公のレオナは事故で一度命を落とし、蘇生後、人間が醜く見え、逆にロボットが美しく見えるという状態になる。僕が感じていたチヒロへの違和感は、レオナにとってはまったく逆で、美しさを感じる対象だった。
僕たちが当然と思っている感覚や価値観は、視点が変わると一瞬で逆転する。
これは、自分自身の過去とも重なった。 僕の家族は過去に離婚を経験している。当時の僕は、その出来事にとらわれて、常に何かを埋めるような感覚で生きていた。あらゆることを深刻に捉え、視野は狭まり、目の前のことばかりに必死になっていた。
今振り返ると、その深刻さは少し行き過ぎていた気がする。 年齢を重ねて、自分のことを少し離れたところから見られるようになった。すると、自分が何に囚われていたのか、徐々に理解できるようになった。
過去を変えることはできない。でも、今をどう生きるかは自由だ。未来を完全に予測することは難しいけれど、自分の望む未来に近づくような行動を選ぶことはできる。
深刻になりすぎると、目の前の小さなことだけに縛られる。中長期的な視点を持って、今できることに穏やかに集中することが、きっと大切なんだと思う。
あの頃の自分に伝えられるなら、「過去に囚われすぎなくていいよ」と言いたい。
『火の鳥』復活編を通して、僕が感じた違和感や葛藤は、自分の内側にある視点の曖昧さを示していた。
だからこそ、過去に囚われすぎず、中長期的な視点を大切にしながら、ゆったりと今を生きていきたいと改めて思った。